いつも喜んでいなさい|ハワイ|TH Associates
  • LinkedIn
  • Facebook
  • Twitter Social Icon

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

私は、洗礼を受けたクリスチャンではないが、亡くなった父は18歳の時に受洗した敬虔なクリスチャン、母も父に影響されて60歳を過ぎてから受洗したクリスチャンであることもあり、キリスト教には、昔から関心が深く、一時期、教会にも毎週通っていた。

 

洗礼を受けてクリスチャンになることには、抵抗があるが、人がスピリチュアルな存在であることは真実と思っており、また、聖書の言葉には、共感を覚えるものがたくさんある。

 

表題の言葉は、テサロニケ第一5:16-18にある言葉である。以下はその解説である。

 

「いつも喜んでいなさい」というのは、何があってもニコニコしていれば良いといったことではない。それは、喜びを人生の基盤にするということを教えている。悲しみ、怒ることがあったとしても、悲しみに沈んでしまわない、憂いにふさがれてしまわない、怒りに支配されてしまわない。むしろ、悲しみも、憂いも、怒りも、最終的には喜びに変えられていくということである。神が与える喜びの上に人生を築くなら、悲しみは

後悔で終わらず、憂いは失望で終わらず、怒りは罪に導くものにはならない、ということである。そして、

そうする時に、そこから感謝が生まれて、実に、喜びは感謝の源になるのである。

「絶えず祈りなさい。」というのは、時間的なことだけを言っているのでなく、祈りで始めた一日を、祈りによって過ごすということを意味している。一日を祈りで満たす、祈りが生活になる、生活の営みが祈りになるということである。そのような祈りによって、私たちは感謝に導かれていく。感謝の源は「喜び」であるが、もし、祈りがなければ、神が与えてくださっている喜びを発見することができない。熱心に祈り求めていればこそ、求めていたものが与えられた時、それが神がしてくださったことが分かり、そこから感謝が生まれる、ということである。祈りがなければ、神が良いものを与えてくださっていても、偶然、物事がうまくいったと思うだけで、神の恵みが見えず、感謝も生まれないのである。また、「祈り」には「願い」だけでなく、神のみわざや神のことばを深く思い見る、「観想の祈り」と呼ばれるものも含まれている。そのような祈りを積み重ねていると、人生に洞察が与えられ、人からみて、とても感謝なこととは思えないことも、感謝することができるようになる。言ってみれば、名実ともにポジティブ思考で生きられるということである。

「喜び」と「祈り」と「感謝」の三つはしっかり結びついていて、決して分けることができない。とりわけ「祈り」は「喜び」と「感謝」をつなげるものである。本気で祈る人が、主にある深い喜びを味わい、こころからの感謝をささげることができる。

「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝する」というのは、そうしていれば、気分がいいから、ハッピーでいられるからという処世訓ではない。私たちが感謝の心を持つのはそれによって自分を喜ばせるためではなく、それによって神を喜ばせるためである。ほんとうの感謝は神に向かって献げられるものである。

全てのことが、適切な時に、適切な場所で、また適切な人々と起こるのであれば、それをオーガナイズしている「何か」があると考えるのは自然なことだと思う。その「何か」を、人は神、サムシング・グレート、宇宙と呼ぶのだと思う。また、「引き寄せの法則」的に言えば、「喜び」「感謝」することによって、自分の生み出す周波数を高くし、高い周波数の人、出来事、つまり愛情豊かな人、愛に溢れた出来事、うれしい出来事を引き寄せるようにすることだということもできるかと思う。